カテゴリー「大分大学紫岳寮/空手道」の記事

2016.08.11

空手道と私~オリンピック競技となって思う~

毎日白熱のオリンピックを見て、寝不足の方もおられよう。私もその一人である。

2020年、東京オリンピックで空手が正式競技となった。

「空手家」である自分にとっては喜ばしい話である。ただ、柔道がそうであったように、オリンピック競技となる中で、その武道性が失われやしないかと危惧する。

私のホームページ・プロフィールでも公開しているように、私の現在の段位は「全日本空手道連盟 公認二段」である。

空手の世界は流派が多数あり、それぞれの流派、道場で黒帯(初段以上)を出している。

それでもやはり「全日本空手道連盟」は学連も含め日本で一番大きな空手団体・組織である。オリンピック競技での主体ともなる。全空連が出した黒帯を持っていれば、世界どこに行っても「空手の有段者」として通用する。

最初は大分大学空手道部で三年間の修行をし、師範から初段を頂いた。大学院へ進み更に3年、合計6年間修行し、福岡まで行き、厳格な試験を受けて二段を取得した。

よって、大学時代はずっと角刈りだった。

大学の空手道部は、その辺の町道場とは練習量が全く違う。その辺の町道場で3年やったといっても、週に一回2時間程の練習を1~2回やるのが精いっぱい。それで黒帯を名乗る。

大学の空手道部は一日3時間以上を毎日、それに朝練、夜練、夏合宿、冬稽古、寒稽古などそれは過酷だ。

就職で大阪へ来て、練習場所を求めて町道場を訪ねた。

全空連の二段だと名乗ると、いきなり、そこの黒帯10人を相手に組手をさせられたが、秒殺だったのを憶えている。黒帯を締めているのに、要はレースにならないくらい弱い。

それから大阪時代も忙しい中、道場へ通い空手修業を続けた。岡山に帰ってきて事業をはじめたので、空手どころではなかったが、自己鍛錬はずっとしてきた。

5年ほど前に近くの武道館を訪ね新たな道場で練習を再開。二年の修業の後、40代半ばでもう一度、その流派の昇段試験を受け、黒帯を取得した。

かれこれ空手歴は30年になり、二段を一つ、初段を二つ、合わせて3本の黒帯を持つ。

現在道場通いはしてないが、専用のジムを造り、サンドバック打ちやウエイトトレーニングができる環境を整えている。

この年になっても、今でも最低、突き100本、蹴り100本、サンドバック打ち100本、サンチン、テンショウ等の基本型を毎日欠かさない。

確かに昔ほどは動かないが、まだそこそこいける。何歳まで維持できるか挑戦は続く。

空手との出会いが私と私の人生を造り、そして今の私があるのは空手との出会いがあったからだ。空手によって私は私たりえた。

男たるもの、いくつになっても、絶えず戦闘態勢が取れるようにしておくべきだ。

2020年のオリンピックが今から楽しみだ。

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2016.07.27

後輩、大阪から来たる

Dcf00212大阪在住の後輩が、私を訪ねて来てくれた。

大学時代の一つ下の後輩である。もう、十年以上ぶりである。

40代になってから、旧友や後輩に会う、という機会がしばしばある。

私も、過ぎ去った時代を懐かしむことができる年齢になったということであろうか。

大学時代、紫岳寮で寝食を共にし、大学院の建築計画研究室で一緒に研究をした。

都合5年間を共にした。

私と同じ、根っからの「武道家」である。私は空手で彼は剣道。

器用ではないが、努力家であり、真面目で間違いがなく、嘘をつかない男である。人間として一番大事な所が完璧だ。

だからこそ、私も長く彼を信頼し、寮やゼミという大事な場所で、彼は絶えず私のそばにいた。

現在、関西の某準大手ゼネコン設計部で奮闘している。

あの時代、建築を語り、建築で飯を食っている人に憧れ、自分たちもなんとか建築で飯を食いたいと思い、切磋琢磨し、勉強し、図面を描き、徹夜し、夢を語り合った。

そして20年以上がたち、場所は違えど、お互い「一級建築士」として建築設計の仕事をしている。あの頃の「夢」は「現実」となっている。実務を知らない、あやふやだった会話が今や、建築の奥の奥まで知り尽くした、極めて専門的な、二人の技術屋の会話になっていた。それが少し不思議な感じがした。

思えば遠い話である・・・研究室で、「サッシの形ってどうやって書くん?わっからんわ~」と言っていたのがついこの前のような気もする。

話は尽きることがなかった。私の会社や自宅を案内した後、倉敷美観地区の「旅館くらしき」で食事をした。全国的に有名な老舗名門旅館である。

この旅館は数年前に経営者が変わり、昔の風情は失われてしまったが、郷土が生んだ建築家・浦辺鎮太郎氏が再生した建物は今見ても素晴らしかった。
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旧友とはいいものである。何年かぶりに会っても、お互いの立場がいかようであろうと、昔のままに戻れる。

人生後半戦となったが、もうひと頑張りしようと誓い、別れた。

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2015.10.29

再び大分を訪れました。

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前回、紫岳寮の同窓会で約20年ぶりに大分を訪れてから、一カ月もたたないうちに再び大分を訪れました。

今度は偶然に時期が近かったのですが、大分大学「建築計画研究室」のOB会が研究室始まって以来、初めて行われるとのことで参加しました。

前回、一度大分に行ってしまうと、距離的なハードルが下がり、二度目は気軽に行くことができました。

20代の頃は大阪・東京間を車で日帰りしたり、東京帰りに北陸をまわり、帰ってきたりと、長距離運転は疲れることもなく平気でしたが、なんせここ最近、近県へは行きますが、500キロを一気に走ると言うのはなかなかなかったので、多少の不安はありました。ところが、行ってみると、ドライブ好きの私にとっては、至福の時でした。

車の中はミュージックホールと化しますが、カセットテープをいちいち入れ替えていた時代と比べて今は便利になりました。好きな曲を好きなだけ自由に呼び出して聴けるというのも、長距離ドライブの楽しさを増幅させてくれます。

関門橋に前回はなかった仮囲いが・・・。化粧直しのようです。

Dcf00261Dcf00252Dcf00262大分に到着。

大分県立美術館を訪ねました。

ブリッジ正面に見えるのは「オアシスタワー」。

私の出身設計事務所である「日建設計」の設計です。しかも大分大学の大先輩の設計です。今回はこのホテルに泊まりました。

ブリッジを渡ると大分県立美術館です。本館より、ブリッジが一番あか抜けていてオシャレです。シンプルに構造体がそのまま出て、白が綺麗ですね。これが別の色だと、普通の川に架かっている鉄橋のようになり、ダサい見栄えになるのではないでしょうか。色って大切です。

Dcf00254_2中は大きな吹抜け。気持ちが良い空間。

Dcf00257はて、ここでエスカレーターで上に上がっていくと・・・どこかでみたような景色。

そう、あれです、岡山の直島で安藤さんが作ったベネッセハウスの・・・・・。

ほぼ同じ印象(笑)。建築とは模倣の連続(笑)。しかし、オリンピックのロゴのような世間から目くじらはたてられません。そんなことを言っていたら世の中には模倣に近い建物、似た印象の建物はごまんとあり、寸法や色や、どこまで一緒だったらパクリといえるのか。これを判断することは不可能に近いでしょう。

ただ、私はこのたびは、個人的には、直島と「一緒やな」と思った、というだけです。
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惰円の向こうにオアシスタワーが見えます。

このたびは私を6年に渡りご指導頂き、建築の基礎的な考え方から、世の中に対する、見方、処世術まで教えて頂いた恩師にお礼を言う為に大分まで来ました。

10代の頃の多感な私が多大な影響を受け、その後の建築人生に決定的道筋をつけて下さった。大学院に入ってからは、研究に関しては本当に厳しかった。が、同時に、本当に可愛がって下さった。物事の本質を追究する姿勢を先生に教えて頂いた。

恩師に再会できて、きちんとお礼を言えたこと、これでもう思い残すことはありません。

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2015.10.24

大分大学紫岳寮の現在

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大分大学紫岳寮のことについてはこのブログでもたびたび書いてきた。

(写真は中庭から南寮と北寮を見たもの、屋上からの景色、九州一広いと言われるキャンパスが広がる)。

当時、絶対に寮内に、国や大学の関係者は入れなかったし(特別な行事以外)、国や大学本部と寮は基本的には敵対するものであった。

寮体制を崩壊させ、大学の管理下に置こうとする大学や国との戦いであった。

国や大学のその動きを絶えず警戒し、対策を練ってきた。その当時に我々役員が、一番恐れたことは、学生のみで自治を行う、「自主管理・自主運営」の旗印が国によって奪われることである。

体制が崩壊することである。

そして卒業後20年以上たった今、その当時一番恐れていた姿の寮が目の前に現れた。

寮は国家公務員の大学職員が常駐し、全室個室、シャワー・ミニキッチン付き、自治権など全くない。全てが面影がないほど全面改築されている。一番驚愕したのは、北寮と南寮のうち南寮が女子寮となっていることである。

一応写真のような扉でセキュリティーがかけてあるが、当時全く冗談で言っていたことが現実になっていた。あり得ない現実。窓の対面が女子寮なのである。我々の時代は、女子寮は離れた別敷地にあった。

それで問題が起きないか?と今の管理人に聞くと、現在の大学生は草食?で、男子寮と女子寮が隣接し、繋がっていてもたいした問題にはならないらしい。男子は女子寮には入れないが、女子は男

子寮側に自由に出入りできるらしい。

Dcf00178_2玄関近くに我々が、誇りとして背負い、シンボルであった、寮の看板が、過去の遺物のごとく「展示」してあった。

紫岳寮(男子寮)と女子寮(藤蔭寮)の玄関に掲げてあった木表札である。

その下には、新しくなった寮を、文部科学副大臣が視察にきた様子が写真入りで誇らしげに飾ってあった。

とうとう寮は自治権を国に返上したのだ!

それまで私もにこやかに見学していたのだ、が・・・・。これを見た瞬間に、20年前に精神がタイムスリップした。

           「この野郎」。

当時の思いを走馬灯のように思い出した。寮は敗北したのだ。

当時、私が総務委員長の時、大分大学長から「君が総務委員長のうちに自治権を大学に返さないなら君を退学させる」と。圧力をかけられた。

また工学部の学部長からも「寮の体制を変えなければ君に単位を与えない」と。いわれもない因縁。自分で言うのはなんだが、当時私の成績はオール「優」であった。

「やれるものならやってみろ」。

一歩も引かなかった。寮と共に討ち死にする覚悟で腹をくくっていたからだ。

そんなことを思いだした。あれはなんだったのか・・・・・。

私たちが頑張っていた、その間は、貧乏でも大学教育を受けられた。寮がなかったら経済的問題で大学を辞めなければならない者がたくさんいた。

そして一緒に見学した仲間たちが、この寮があったから今の自分があると皆が思ってくれいていることが自分の宝である。

そして、苦労していろんなことを乗り切ったことによってついた根性があるから、今の自分や皆があるし、同じ釜の飯を食い、一緒に毎日風呂に入り、裸の付き合いをした仲間だからこそ、ブランクがあっても会えばすぐに当時に戻れる。

そんな一生の財産である友達を授けてくれた、それだけでも長く続いた紫岳寮の存在意義はあったと思う。

そして、今、改めて言いたい。

紫岳寮よ、ありがとう。そして我々が青春をかけ、友情を育んだ学寮よ、永遠なれ!

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2015.10.22

大分大学紫岳寮昭和61年度生同窓会に出席

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大分大学紫岳寮は、国立大学の学寮であり、過去、学生のみで全てを運営する、自主管理・自主運営の自治寮であった。

予算組から経営、大学、国との予算交渉まで、全て一切を学生が行う。

「教育の機会均等」「貧しき者にも均等に高等教育を受ける機会を与える」という理念を持つ。

300人の血気盛んな若者を、総務委員長を中心に9人の役員で束ねる。一致団結力は他にない組織であった。

4年間、長くは8年間に渡り、寝食を共に共同生活をする。部屋は二人部屋、風呂、トイレは共同。あいさつ、掃除、時間厳守など厳しいルールに基づいて生活する。

朝は先輩にドアを蹴破られ、運動場に整列、直立不動のまま、点呼。ハチに刺されていようとも振りほどくことなどはできない。その後、ランニング。

夜は死ぬまで焼酎を飲まされた。ドンブリで25度の焼酎を一気飲み。飲んでやっと一言、先輩に意見を述べることができる。講釈を言う前にドンブリでまず一気飲み。偉そうに文句を言うならそれだけの何かをして言え、それからだ、という理念。

また、廊下に一列に整列して、直立、目線は30度上、あいさつや返事の声が小さい、掃除や整理整頓ができていなければ恫喝、それでもできなければ鉄拳制裁。和室で正座させられることもある。

書けばまだ色々と、いくらでもあるが、まさにこれは軍隊であろう。連帯責任を取らすやり方も伝統的で、それによって仲間意識が目覚める。

昔、学生運動の巣であった関係もあったろう。団結して国や大学、他組織に圧力をかけるやり方も伝統的である。

3年生に成る頃には、頭角を現し、リーダーになれる奴が多く出てくる。空手道部、少林寺拳法部、柔道部、レスリング部、剣道部、ラグビー部等々・・・ほとんどの体育会系の主将、副将その他幹部を寮生で独占していた。

私はこの寮で第40代総務委員長(寮長)を務め、空手道部では副主将を務めた。当時は頭は角刈りで髭を生やし、ガクランを来て下駄で歩いていた。

20年ぶりに皆集まった。久しぶりに男子寮式の自己紹介をした。写真の男は教師をしている。皆、一流の大企業で重要な役割を果たしている。

半端な根性ではないから、出世もしようし、

「寮での日々を思えば、大抵のことは乗りきっていける」と皆口にした。

楽しい夜を過ごした。

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2015.10.21

我が大分大学

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05大分大学を訪ねた。

大学と大学院の合わせて6年間通った。

通った、というより、住んでいた(笑)。敷地内の学寮にいたので、まさに大学に住んでいた。

また、大学院に入ってからは、研究室に住んでいた(笑)。まさに、大学が全ての大学生活だった。

まさに私の青春の全てが詰まった場所だ。

空手道部、建築の勉強、学寮の自治、アルバイト、まさに目が廻るほどの忙しさだった。ほとんど寝ていない。このころ仕方なく3時間睡眠が身に付く。

今思えば、現在の私の基礎となる部分は全て、この大学時代に身に付いたと思う。

厳しい空手道部や男子寮で、上下関係、縦社会の半端ではない厳しさ、大学や国と対等に渡り合うだけの、弁舌と気迫と根性。

そしてかけがえのない友達や、友情の尊さ。

勿論、建築という学問の基礎的な力。

お金を稼ぐことの半端ではない困難さ。朝から晩まで働いて、夜中も家庭教師やら、掃除やらビルメンテナンスやら。それでも幾ばくにもならない。

ファミレスで楽しげに語り合うカップルが出ていくのを待ってましたのごとく突入し、時間内で掃除を仕上げてしまう。頭は段取りでフル回転だ。ここから私の掃除哲学なるものもできた。

その人がどれだけ頭がよく、気がつき、段取りがよく、気づかいができるかは、掃除をさせてみたらすぐわかる。また、どれだけ人生の苦労をしてきたかも全てわかってしまう。

本当に金がなかった。まわりもみんな本当にいつも金がなかった。貧乏の塊だった。金がないことは辛かったが、夢と希望があった。そんな我が友たちは、皆、立派になった。それぞれに立派になった。

あの頃、狭い部屋で、一つのラーメンを何人もですすり、夢を語った、仲間の、そして学僚の、同志の、活躍を誇りに思う。

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2015.10.17

20年ぶりの大分へ

01_2大学・大学院と6年間大分で過ごした。このたび20年ぶりに大分の地を踏むことになった。

勿論電車など使わない。愛車と共に・・・だ。

関門橋。

子供の頃、親戚が九州にいる関係でよく連れていってもらった。

この橋を渡るたびに、「すごいな~、大きいな~」と思っていた。大学時代はほとんど帰省しなかったのだが、大人になってからも度々渡る橋だった。

それが、なかなか。

就職し、夜中じゅう働くようになり、また、事業をはじめてからは特に忙しくなり、行く機会がなかった。

夢の中で度々出てくる大学時代。

その風景が本当に現在もあるのか?ある意味大分の地を踏むことは夢でもあったのだ(ちょっとオーバーだが)。夢にまで見る土地には違いない(笑)。


02_2走り続けること7時間。

とうとう別府の街並みが見えてきた。

第二の故郷「大分」!青春の全てが詰まった街よ!(かなりオーバーな表現になっているかもしれない(笑))

あの頃と変わらず猿山はある。湯けむりもある。この景色に懐かしさのあまり思わず、「絶句」。

この、大分と別府を結ぶ別大国道を夜な夜なドライブしたものだ(その頃から、車とドライブ好きは変わっていない)。


03_2大分駅前だ。

ここで頭がパニックに。

全くわからない。ほぼ面影もない。大分は田舎と思っていたが、今は昔か。岡山よりよっぽど賑わい、そしてオシャレな街へと変貌を遂げていた!

ちょっと、なめていたかもしれない、大分を(笑)。驚愕した・・・。

記憶の片りんを必死で探そうとして、脳が悲鳴をあげていた。

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2012.11.30

学寮「自主管理・自主運営」の旗印の下。その生き様。

いよいよ11月も今日で終わり。

明日から師走に突入です。例年のごとく12月は年末までの引渡し物件でばたばたとしてきます。年末まで突っ走るしかありません。これもまた楽しいことです。

今月は、試みに、「毎日ブログ更新」をやってきました。するとアクセス数は激増。たくさんの方に読んで頂きました。

ただ、だんだんと義務感が出てきたので、来月からは毎日、というのは決めずにやっていこうと思います。

私は独立以来、あらゆる方面から圧力を受けず、しがらみを持たず、たえず自主・自立を貫いてきました。

下請けを全くしていないので、商売上も誰に遠慮することもありません。また、公共事業や役所の仕事は一切やらず、公的な役職等もお誘いはあっても一切固辞してきました。

よって、いかなる政治家や政党にも、お願いされることはあっても、頭を下げる必要もなければ、こちらからお願いをすることもありません。何の利害関係も必要ありません。

私は何かを制約されたり、誰かから何かを言われるのが何よりも嫌なのです。

だから例えば、人からおごられたりということも一切しません。僅かなことで、人から担保を取られたくないのです。何かしてもらえば次には自分の信念の違うことも、頼まれればしなくてはならなくなります。それこそが私にとって一番つまらないことです。

サラリーマンをしているとなかなかそうはいかないことはサラリーマンをしていた私にはよくわかります。だからこそ、信念を貫く生き方をする為に、独立したと言っても過言ではありません。

そういう生き方をする、と昔、山で死んだ寮友と約束したのです。彼が死んでもう23年になりますが、その誓いを日々忘れたことはありません。

彼が死んでから、その倍もの年月を、私は生きながらえてきました。長く生きてきました。

しかし、今でも彼に対して恥ずかしい生き方はしてこなかったと自信をもって言える。社会に妥協せず、軋轢があっても、つっぱり続け、納得がいかないものは文句を言い続け、自主管理・自主運営の旗印の下、生きた生き方を社会に出ても貫くと。

大学の学寮で、狭い部屋で誓った誓いを貫いてきた。

自主・自立、独立し、孤高の存在であり続けることに価値がある。誰の影響も力も受けることなく生き続けることが彼に対する供養であると思って生きてきた。

早く死んだ親友の分もそうやって生きると、23年前に誓ったことを忘れていない。

これからも、自分の思ったことを思ったように発信していきたいと思います。

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2012.03.16

大分大学紫岳寮(1)

ブログにて私が大学、大学院と6年間過ごした学寮「大分大学紫岳寮」について書いていこうと思います。というのも、今の季節になるとこの寮について思いだすからです。この春先の匂いをかぐと大学へ入学した年を思い出します。もう何十回も春を経験しているのですが、この大学に入った年は人生にとって特別な春だったのでしょう。それか、この大分大学紫岳寮の印象があまりに強くそう思えるのかもしれません。

この私のブログには大分大学の元寮生と思われし方が多くアクセスして下さっているようです。それは私が知らない先輩や後輩も多々おられます。それがこの紫岳寮の良さでしょうか。寮生であったというだけで多くのことが共有されます。

さあ、それはどこの大学の寮でも同じなのでしょうが、紫岳寮は普通の寮とは違います。ただ一緒に共同生活をしたからその絆が生まれた、とかいうレベルのものではありません。サークル活動や部活動の仲間とも全然レベルが違います。

この紫岳寮についてはヤフーなどで検索するとたくさんのホームページや記事にたどり着きます。辞めた人間もたくさんおり、関わった人の人数は莫大です。他の方で詳しい寮の出来事については書かれている方がいるのでそちらに譲るとして。

さて、この紫岳寮が他の共同生活をするだけの寮と異なるのは、人数が300人以上いた、というのもあるが、この年頃、血気盛んな男が「自主管理」「自主運営」の旗印の元、全てを自分たちの頭で考え、行動し、自主的に寮の運営を行う「自治寮」であったことだ。今はその自治権はなくなってしまったそうだが、私が在寮した当時はあらゆる面で独立し、大学ともあくまで対等に協議し、大学の中でも自治を貫いていた。相手が学長であろうが、学部長であろうがひるむものではなかった。

私はその寮で第40代総務委員長(一般的には寮長のこと)を務めた。300人の男が一つ場所で共同生活を送り、しかも全ては自分たちで自主運営されている。となればその統制をとるためにいかなる状態に陥っていたか想像に難くないだろう。今の北朝鮮をみていると、当時の寮はあながちそれと違っていないのではないか?と思う面もある。

私がいた当時は壁の落書きにその名残をみるだけであったが、以前は学生寮は学生運動の巣窟だった。学生会館を占拠したり、大学と激しく対立し、反体制を掲げた。ヘルメットを被って蜂起したり、そういう時代だった。私が在寮した当時は、ずい分時代も違い、当然学生運動などしてはいなかったが、その昔のやり方、名残がたくさん残っていた。

伝統だけで形骸化した行事もあったが、考え方は継承されていて、「緊張感を失えば、大学に自治権を奪われる、全国でも紫岳寮が自治寮として存続し得ているのは、寮生が頑張り、大学に隙を見せないからだ」という考えが浸透していた。教育の機会均等の一端を担うという大きな目標があった。

だから一年生の時から徹底した教育が行われた。耐えられなくて辞める者も多かった。その所業は今行えばほとんど全てが人権蹂躙(じゅうりん)となる行為であったと思う。とんでもない試練を与えられたことによって、紫岳寮生は、外の世界の学生と比べてずいぶん老けた風貌の者が多かったし、いまから思えば貫禄のある先輩が多かった。それだけの集団の中で役員をする者は、人望や、強い意志、体力、男としての器量を求められた。

今の私の考えや、生活態度、会社の運営方針、人生観、政治観などはこの時に養われた。失ったものもあるが、多くのものを得た。一番は深く思考することだろう。夜を徹して討論し、深く考える。その考えるという習慣、そして人の前で自分の考えを表現する方法、そういうものをこの寮で培った。

今の私が、一サラリーマンではなく、独立した経営者であり、誰からも支配されず、下請けなどせず、銀行からも融資を受けず、誰からも指示や文句をいわれない体制で経営をやっているのは、この時に養われた自主性と独立心によるところが大きい。

そして組織の作り方、動かし方、人との協力の仕方、ネットワークや人脈の作り方、人の動かし方、そのほとんど全てを寮で学んだ。いま私の会社は私なりにずい分成功していると思っているが、この寮で上と下との間で揉まれ、悩み、人間の本性を見、人間を深く研究し、達観しなかったら今のような会社経営者の道はなかったのではないかとさえ思うほどである。

今日はこのくらいにして、この紫岳寮シリーズはまたおいおい続けていくつもりです。

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