カテゴリー「大分大学紫岳寮/空手道」の記事

2012年11月30日 (金曜日)

学寮「自主管理・自主運営」の旗印の下。その生き様。

いよいよ11月も今日で終わり。

明日から師走に突入です。例年のごとく12月は年末までの引渡し物件でばたばたとしてきます。年末まで突っ走るしかありません。これもまた楽しいことです。

今月は、試みに、「毎日ブログ更新」をやってきました。するとアクセス数は激増。たくさんの方に読んで頂きました。

ただ、だんだんと義務感が出てきたので、来月からは毎日、というのは決めずにやっていこうと思います。

私は独立以来、あらゆる方面から圧力を受けず、しがらみを持たず、たえず自主・自立を貫いてきました。

下請けを全くしていないので、商売上も誰に遠慮することもありません。また、公共事業や役所の仕事は一切やらず、公的な役職等もお誘いはあっても一切固辞してきました。

よって、いかなる政治家や政党にも、お願いされることはあっても、頭を下げる必要もなければ、こちらからお願いをすることもありません。何の利害関係も必要ありません。

私は何かを制約されたり、誰かから何かを言われるのが何よりも嫌なのです。

だから例えば、人からおごられたりということも一切しません。僅かなことで、人から担保を取られたくないのです。何かしてもらえば次には自分の信念の違うことも、頼まれればしなくてはならなくなります。それこそが私にとって一番つまらないことです。

サラリーマンをしているとなかなかそうはいかないことはサラリーマンをしていた私にはよくわかります。だからこそ、信念を貫く生き方をする為に、独立したと言っても過言ではありません。

そういう生き方をする、と昔、山で死んだ寮友と約束したのです。彼が死んでもう23年になりますが、その誓いを日々忘れたことはありません。

彼が死んでから、その倍もの年月を、私は生きながらえてきました。長く生きてきました。

しかし、今でも彼に対して恥ずかしい生き方はしてこなかったと自信をもって言える。社会に妥協せず、軋轢があっても、つっぱり続け、納得がいかないものは文句を言い続け、自主管理・自主運営の旗印の下、生きた生き方を社会に出ても貫くと。

大学の学寮で、狭い部屋で誓った誓いを貫いてきた。

自主・自立、独立し、孤高の存在であり続けることに価値がある。誰の影響も力も受けることなく生き続けることが彼に対する供養であると思って生きてきた。

早く死んだ親友の分もそうやって生きると、23年前に誓ったことを忘れていない。

これからも、自分の思ったことを思ったように発信していきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月16日 (金曜日)

大分大学紫岳寮(1)

ブログにて私が大学、大学院と6年間過ごした学寮「大分大学紫岳寮」について書いていこうと思います。というのも、今の季節になるとこの寮について思いだすからです。この春先の匂いをかぐと大学へ入学した年を思い出します。もう何十回も春を経験しているのですが、この大学に入った年は人生にとって特別な春だったのでしょう。それか、この大分大学紫岳寮の印象があまりに強くそう思えるのかもしれません。

この私のブログには大分大学の元寮生と思われし方が多くアクセスして下さっているようです。それは私が知らない先輩や後輩も多々おられます。それがこの紫岳寮の良さでしょうか。寮生であったというだけで多くのことが共有されます。

さあ、それはどこの大学の寮でも同じなのでしょうが、紫岳寮は普通の寮とは違います。ただ一緒に共同生活をしたからその絆が生まれた、とかいうレベルのものではありません。サークル活動や部活動の仲間とも全然レベルが違います。

この紫岳寮についてはヤフーなどで検索するとたくさんのホームページや記事にたどり着きます。辞めた人間もたくさんおり、関わった人の人数は莫大です。他の方で詳しい寮の出来事については書かれている方がいるのでそちらに譲るとして。

さて、この紫岳寮が他の共同生活をするだけの寮と異なるのは、人数が300人以上いた、というのもあるが、この年頃、血気盛んな男が「自主管理」「自主運営」の旗印の元、全てを自分たちの頭で考え、行動し、自主的に寮の運営を行う「自治寮」であったことだ。今はその自治権はなくなってしまったそうだが、私が在寮した当時はあらゆる面で独立し、大学ともあくまで対等に協議し、大学の中でも自治を貫いていた。相手が学長であろうが、学部長であろうがひるむものではなかった。

私はその寮で第40代総務委員長(一般的には寮長のこと)を務めた。300人の男が一つ場所で共同生活を送り、しかも全ては自分たちで自主運営されている。となればその統制をとるためにいかなる状態に陥っていたか想像に難くないだろう。今の北朝鮮をみていると、当時の寮はあながちそれと違っていないのではないか?と思う面もある。

私がいた当時は壁の落書きにその名残をみるだけであったが、以前は学生寮は学生運動の巣窟だった。学生会館を占拠したり、大学と激しく対立し、反体制を掲げた。ヘルメットを被って蜂起したり、そういう時代だった。私が在寮した当時は、ずい分時代も違い、当然学生運動などしてはいなかったが、その昔のやり方、名残がたくさん残っていた。

伝統だけで形骸化した行事もあったが、考え方は継承されていて、「緊張感を失えば、大学に自治権を奪われる、全国でも紫岳寮が自治寮として存続し得ているのは、寮生が頑張り、大学に隙を見せないからだ」という考えが浸透していた。教育の機会均等の一端を担うという大きな目標があった。

だから一年生の時から徹底した教育が行われた。耐えられなくて辞める者も多かった。その所業は今行えばほとんど全てが人権蹂躙(じゅうりん)となる行為であったと思う。とんでもない試練を与えられたことによって、紫岳寮生は、外の世界の学生と比べてずいぶん老けた風貌の者が多かったし、いまから思えば貫禄のある先輩が多かった。それだけの集団の中で役員をする者は、人望や、強い意志、体力、男としての器量を求められた。

今の私の考えや、生活態度、会社の運営方針、人生観、政治観などはこの時に養われた。失ったものもあるが、多くのものを得た。一番は深く思考することだろう。夜を徹して討論し、深く考える。その考えるという習慣、そして人の前で自分の考えを表現する方法、そういうものをこの寮で培った。

今の私が、一サラリーマンではなく、独立した経営者であり、誰からも支配されず、下請けなどせず、銀行からも融資を受けず、誰からも指示や文句をいわれない体制で経営をやっているのは、この時に養われた自主性と独立心によるところが大きい。

そして組織の作り方、動かし方、人との協力の仕方、ネットワークや人脈の作り方、人の動かし方、そのほとんど全てを寮で学んだ。いま私の会社は私なりにずい分成功していると思っているが、この寮で上と下との間で揉まれ、悩み、人間の本性を見、人間を深く研究し、達観しなかったら今のような会社経営者の道はなかったのではないかとさえ思うほどである。

今日はこのくらいにして、この紫岳寮シリーズはまたおいおい続けていくつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)